口頭の重要性

中世史の研究で頻繁に参照される史料が、チャーターとかシャルトとかと言われる記述史料である。
アイルランドが「特殊」と言われる理由の一つに、この手の史料がアングロ・ノルマンがやってくる12世紀以前には、
ほとんど無いことが挙げられる。
逆にナラティブの史料が大量にあり、しかも教会関係のものを除くとヨーロッパではかなり早い時期に俗語で書かれている、
ということも「特殊」と言われる所以である。
「特殊」云々については言いたいこともあるが、ここではとりあえず語らない。
一言言いたいのは、俗語で書かれているから読むのが大変で孫引きしまくるしか今のわたしにはできない、ということか。
現代における古・中世アイルランド語の随一の研究者の一人で、その論文のかなりの部分が法律系文書、
という研究者に助けを求めたところ、「孫引きでよろしい!」とのことなので、開き直ってそうしている。


で、いろいろな二次文献に散乱しているその部分をとりあえず打ち込んでいるところ、こんな箇所を発見。

Atatt teora haimsira imbi bailidach in bith: recuairt duinebaid, tuaradlia coctha, fuaslucad cor mbel.
'There are three occasions when the world is in disorder: a sudden onset of plague, the flood of war, when verbal contracts are dissolved.'
世界が無秩序に陥るに三つの場合がある。疫病の急な流行、戦争の多発、言葉による契約の不履行である。

cor mbelというのは直訳すればcontract of a lipになるわけで、ここでは明らかに口頭での契約を示す。
つまり紙に書き留めるよりも、言葉で表したことにその有効性を認めるわけだ。
もちろんそのための取り決めも多く、契約不履行にたいする保証として保証人を決定し、
この契約の場に少なくとも一人のeye-witness、つまりその様子を見ている立会人が必要となる(例外もある)。
初期中世のアイルランドが契約中心の社会であることが明らかであるので、
この規定の重要さは計り知れない。


ローマの文書第一主義とは違う、社会理念であるわけだ。
どちらも社会の混乱を防ぐために成立してきた背景があるわけだから、
中世史研究では異常かも知れないが、それでも社会はうまく回ってきた、と考えるべきであるな。
研究する立場からは、具体的な契約関係を表すものが残っていないので非常に分かりにくいのだが。