初期中世アイルランドの修道院教会制度

さて、*1の状況を前提とした上で、本題に入る。
意外に、というか当然、というのか、日本だけでなく世界的にも中世史の世界で、アイルランドのこの時期の修道院教会制については、古い学説で理解されていることが多い。古い学説、というのは、それまで「ケルト教会」、というよく分からないがともかく「ケルト人の文化の影響を受けた、ローマカトリックとはまったく異質な、異教的キリスト教会」という過去の極端で、ロマンス主義的である意味ナショナリスティックな説を払拭し、アイルランドの初期中世の社会構造、教会組織に新たな光を当てた、Kathleen Hughesの説である。*2
彼女の説は大まかに言って次の二つの様にまとめられる。
1,パトリックによって導入されたローマ・カトリック的構造を持った教会制度が、7世紀以降、修道院という形に発展し、そこでは修道院長が大きな権限を持ち、司教はその下で聖職活動(ミサや洗礼など)を行うだけの存在となった。
2,大陸で発展したような司教管区、その下に複数含まれる小教区、というヒエラルキーは、大修道院の裁地権の下にその娘修道院が支配され、その形も地政学的ではなく、各地に散らばった点を結ぶ形の、拡散型ヒエラルキー(paruchia > parochia, Lat.*3)という形で発展した。
この学説は、初期中世アイルランドキリスト教の発展を理解する上では、基本であるが、80年代以降、多くの修正が多数の研究者によって成されてきたのが現状である。なぜ過去の修正がほとんど無視されているのが、アイルランド以外の研究の現状である。
司教は司教として存在し、単なる修道院長の下の権威のない存在ではなかった。簡単に言えば修道院教会における二つの権威のうちの一つであり、司教は司牧活動の責任者、裁地権の焦点という宗教的権威を代表し、修道院長は教会の世俗的(変な言い方だが)権威、つまり土地建物や、教会に付属する財産としてのclientsの責任者、といったものと考えれている。それ故に、後者は別に司教である必要もなく、場合によっては俗人であることもあった。
また、7世紀以降も修道院ではなく、司教の管理する教会、つまり修道院長のいない組織が残っていた、とする研究者もいる。
paruchiaについても修正が成されている。つまり、上記のような形がみられるのは、Iona修道院が存続していた9世紀の半ばまでの、Iona修道院とその娘修道院(Columban familia)の関係を表しているに過ぎない。

750-850年の100年は、様々な教会間で、その領域の境界を定めた重要な時代であり、9世紀後半の教会間闘争*4の終焉が、この過程が完成とアイルランド教会の比較的安定した期間が始まったことを表している。
(...the 100 years from AD750 to 850 was the great period of territorial demarcation between the various churches, with the cessation of inter-church conflicts in the later ninth century reflecting the completion of this process, and the beginning of a period of relative stability for the Irish Church.
Ó Carragáin, Thomás, "A Landscape Converted: Archaeology and Early Organisation, Iveragh and Dingle, Ireland", Carver, Martin (ed.), The Cross Goes to North: Processes of Conversion in Northern Europe, AD 300-1300, Suffolk, 2003, 125-152; 147.)

というのが現在の認められている大まかな修道院教会のヒエラルキーの形である。


ということがちょっとでも分かってもらえると良いなぁ、と思った。

(しかし相変わらず和訳がヘタで困る。)

*1:気がついたら一月経っていた・・・。

*2:The Church in Early Irish Society, 1966, Early Christian Ireland: Introduction to the Sources, 1972の2冊は、初期中世アイルランド史を学ぶものにとっての古典中の古典。古い学説とはいっても未だに参考にすべき考察も含まれ、まずこれを読まずしては研究は進まないという教科書的論文。しかも非常に平易な読みやすい英語。

*3:英語で言うところのparishは、現在では小教区を表し、そこの責任者は司祭、となっているが、初期中世ではアイルランドだけでなく大陸でもparishは司教の教区=司教管区とされていた。

*4:修道院対大修道院、大修道院対他地域の王権、大修道院対その近隣の小修道院間の争いがこの時代、頻繁にみられた。