『ヒストリアン』の書評

なんだか大絶賛なんだが・・・。
http://book.asahi.com/review/TKY200604180257.html

しかし、

もちろん、ゴシック・ロマンスやゴスロリ文化全盛の昨今、新しい歴史学やポストコロニアリズムからする人種論的視点に立ったドラキュラ再評価も相当の進展を示しているので、正直なところ、読み出したときには類型に終わるのではないかという懸念があった。だが本書は、多くの亜流を生んだブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』(1897年)とは異なり、トランシルヴァニアとワラキアで暴虐の限りを尽くし、オスマン帝国の侵略をできる限り長く阻止することに貢献した15世紀の専制君主、「串刺し公」と呼ばれたヴラド・ツェペシュの正体へ迫ろうとする。とりわけクライマックスで、すべての愛書家を魅了するだろうドラキュラの図書室が生き生きと描かれるところは圧巻だ。

という書き方がすでに「類型」的、もっとはっきり言えば「陳腐」なんだと、気が付かなかったのかな?
今時「ドラキュラ」がらみの話で、ブラム・ストーカーにする人っているのか?
エンターテイメントを強く求めた映画や、ライトノベル系の「吸血鬼もの」ならありそうだけど、
文明の交差点(という表現もはなはだ陳腐ではあるが)である複雑な場所で、
文化と歴史をなんとか維持しようとした歴史的人物、っていう評価は、
目新しくないだろう。(具体例を挙げられない人文が恥ずかしいが)


ゴスロリ文化」が流行っている(らしいのね。知らなかったよ、っつうか恥ずかしいのよ、その言葉が)現在に於いて(? にもかかわらず?)、
そういう歴史的な研究が進んでいる「から」、
ブラム・ストーカーの亜流になりそうという「懸念」があった、
しかし現実は「15世紀の歴史的人物の正体」に迫る、と、
私から見ると理論がウラトラC級な月面宙返りしてるように思えるんだが。


しかし、「新しい歴史学」って何を指しているのか、
ここで使われている「ポストコロニアリズム」って使用法として変じゃないのか、
と、変なことを考えさせてくれる書評であった。