句読点の付け具合:自分の執筆能力の貧相さについて


人に私の論文は読みにくいと言われたことが最近ある。こちらとしてはできるだけ分かるように書いているつもりであるが、結局は「つもり」にすぎない。
できるだけ短い文にしようとするが、自分の能力では長く書いてしまう文があって(脚注との兼ね合いもあって)、短い文、短い文、長い文、ひどく短い文、のように文が並んでいるのを見ると、あまりのバランスの悪さぶりに嘆かわしくなってきて、何度か読み返して短くしようとするが、そうすると「である」「であろう」「である」「である」のような結びが延々並ぶことにもなる(と、この文も長いのだが)。
しかも何度も同じ文を読んでいるうちに、なんだか分かったような気になってしまうので、「これで分かるだろう」と結論づけて次に進む、という進行状況になる。
自分で読んで読みにくいと感じる文にも出くわす。主語を主語でないように変えたり逆にしたり、読点を付け加えたりしてなんとか読みやすいかな、と考える。長いとこの作業も難しい。複文状態だと結びが二つ並ぶことになるのが日本語だし。しかしそうしているうちに論自体にほころびが見え始めて前後の文を入れ替えたり、かなりの加筆をしてみたりする。
パソコン上ではこの作業ができないのでいちいちプリントアウトするのだが、プリンタが親切ではないので(本当はそういう機能がついているはずなのに)、赤字がほとんど出てなく一部真っ白になっていて「?」となる自分がいる。


ともかくカメな状況で後1ヶ月ではどうにもならんが泣き落としは通用するのだろうか。
いくらカメ好きとはいえね。