現実逃避的「ケルト」論考

やらなきゃいけないことから逃れるためにここ1ヶ月ぐらい考えていたことをメモ程度に書いてみる。


定義づけのできないそれでいてなんとなくぼんやりとイメージされる「幻想的」で「ほの暗い」「魔術的」な「ケルト」というものがどういう過程を経て現れたか、を、イェイツについての話を聞いて以来なんとなく想像してみた。


中世のアイルランド文学+古代及び中世初期の(歴史学的及び文献学的及び言語学的)「アカデミック的にもっとも蓋然性がありえそうな」アイルランド社会史→イェイツの(文学的政治的人種的)フィルター→「ケルトの黎明」的幻想→現在におけるモヤモヤっとした「ケルト」イメージの利用と消費

これが「政治的」なところだけクローズアップされて現在のアイルランド国家並びのその国民に反映されてきているものが、めぐりめぐって日本へ、という感じかと。
ポイントは「イェイツのフィルター」で、その目的がなんであれ、意識的であれもっともありえると彼が素直に思ったのであれ、ともかくもある個人の(彼だけではないが、文学史はよく分からないのでとりあえず主として彼の仲間の「アングロアイリッシュ文学者」としておこう、と一応逃げ道も作ってみる)フィルターを通して理解し直された世界を享受している、もしくは消費している点、と考えてみた。


これってつまり、
現実として歴史的蓋然性の高い存在としての坂本龍馬→(今年でいえば)大河ドラマ制作側フィルター→福山版坂本龍馬歴女的オタ
とか、
現実として歴史的蓋然性の高い存在としての戦国武将とそのまわり→(明らかにいろいろねらっているだろう)ゲームやらアニメやら本や雑誌やらの制作側フィルター→暑苦しさも汗臭さも無いやたらとイケメン揃いのもののふの皆さん→歴女的オタとか腐女子とかなんかいろいろ
みたいなのと一緒かー、と思ったらなんか突き抜けたよ。


おそらくいわゆる「歴女的オタ」の方々の大部分の人はおそらくある程度ネタとして理解していて、場をわきまえる見識を発揮してくれる人たちであろうと思われるが、問題なのは「ケルト」の場合はアカデミックの場にも上記のイメージが浸食しまくっていることなんだと思う。わきまえている人ももちろんたくさんいるんだろうけれども。


まあ、別にいいけどね。


現実逃避終わり。