故郷から10000光年

『大奥』の受賞を気に十何年ぶりに再読。
スピード感あふれるコメディタッチの作品はわたしとしてはあまり好みではないのだが、でもスピード感というか圧倒的な速度というのは気持ちのいいものではある。
個人的に好きなのは「ヴィヴィアンの安息」。微笑みを称えた穏やかな人物だと思っていたヴィヴィアンは実は、という最後のところでの読者置き去り状態な終わり方。
ピューパはなんでも知っている」のティリーの愛しさと、歴史を振り返ってみると感じる何ともいえない偽善的な立ち位置。
「苦痛志向」の最後までひっぱった上での、主人公の感じる苦痛の原因の悲しさ。
「ハドソン・ベイ毛布よ永遠に」のある程度予想していたけれども何ともいえない非常に皮肉な人生の結末と残りの人生の空虚さ。
スイミング・プールが干上がるころ待ってるぜ」これも歴史的に見たときの偽善的な主人公の無邪気さに、18、19世紀のアジアと西洋の関係を見ているみたいで非常にイヤだった。そして20世紀末から今世紀のアメリカの状態もしかり。
「ビームしておくれ、ふるさとへ」の原題で気が付かなかった自分にショック。わたしが知っているのはbeam upとかbeam downであってbeam homeとは思わなかった、というトレッキーもの(スタトレという省略はきらいだ)。わたしだったらドクター・マッコイとお話ししたい。苦い顔してかなりきつい皮肉を言われたい。


「われらなりに、テラよ、奉じるはきみだけ」の最後の最後に出てきた、望郷の念が、ほんの数行で心を打つところが非常によかった。ティプトリーの、短編の幕の閉じ方がおそらく自分が最も好きなところなんだろうと思う。良い意味でも悪い意味でも置いてけぼりを喰らったような、どうしたらいいのか分からないような気分にさせられる。
そういう意味でも最も大好きなのは「故郷へ歩いた男」。これだけは十数年たっていてもよく覚えている話だった。破滅の結果を生むことを知らず、破滅に向かって必至に戻っていく。切なすぎる。
終わりにひどく感情を騒乱させる部分をいきなりぶつけてくる、というのは『輝くもの天より墜ち』もそうであったことを思い出すと、短編でも長編でもこれがティプトリーの作品の特徴の一つといえるのかもしれないが、それがSFでもあるとも言えるか。


ティプトリー賞とは、「ジェンダーへの理解に貢献したSF・ファンタジー作品に送られる文学賞」とされているが、ティプトリー自身にはおそらく「ジェンダーへの理解に貢献」するという意志はほとんどなかったのでは、と思う。そういう意味ではこの章の存在がものすごく不思議。ティプトリーに「ジェンダーへの理解に貢献」を感じるのは、ティプトリーの正体を知った読者側の問題だと思われるからだ。
わたしとしてはその正体を知らずに著書が読めたらよかったのに、と思うことしきり。