ドット入り罫線シリーズ

文房具販売も手を変え品を変え。

コクヨ・ドット入り罫線シリーズ

売り文句は「東大合格生のノートのとり方から生まれた、美しく書くためのキャンパスノート」。
ドットが入っていると文字の大きさがそろえやすい、とか、
項目ごとに文頭を合わせる、とか、
図形が美しく掛ける、とか、
図表がフリーハンドでもそのように見えない、とか、
多分そういうことのようだ。


でも塾講師の経験から言えば、美しいノートを採る方法は、
1,先生の板書が美しい。
2,生徒の頭がよい。
のどちらかが揃えばそれなりに美しいノートにはなると思う。
ただ、1の場合だと、美しいノートになったとして生徒の成績が上がるかというとそういうわけではない。
美しく書いても、美しく黒板を写すのに必死になって講師の話を聞かない、
書き終わって満足する、しかも「これはものすごく重要」と後から書き足すと文句が出る、とか弊害がいろいろ。


2の場合、おそらく話を聞きながら頭の中で整理できてるから美しく書ける。
元からの問題だ。
あるいは、学校で必死に取ったノートを家で整理し直して「清書ノート」を作ってる可能性がある。
基本的にそういう指導をしたりもするが、高校生ぐらいになるといちいちノートの確認するのも鬱だ。
そして大体意味がよく分かってない生徒は「清書」の意味がよく分かっていない。
綺麗な文字で書くだけではないのだよ。


院生でもおんなじ事が言える。
語学の勉強会なのに、ノートに原文を写してくることすらしないで数ヶ月で読めるようになるか。
なにゆえ院生に「原文をノートに書き写して文法事項と意味を全部書いて構造つかめるようにするには」
という説明をせねばならないのかよく分からない。外国語は構造つかめるかどうかが大きいだろうに。
院をめざす学生にも原文を拡大コピーしてお茶を濁す人がいてびっくりした。
机に新聞広げたみたいな状態になっている。「あー、だめそうだなぁ」と残念に思いながら眺めている。


それでも猿まねでもある程度効果が見られるのならば、こういうノートもあるよ、と紹介すべきなのか。
頭のよい子は言われなくとも、板書する前にノート(というかメモ)をしっかりとれるんだよな、
そしていまいちな子は何度言ってもしばらくすると忘れてぽかんと聞いて理解したつもり。
多分、センスの問題なんだと思う。

こんな本もあった。

東大合格生のノートはかならず美しい

東大合格生のノートはかならず美しい

今度東大の院生と研究会を一緒にやるからノート見せてくれと迫ってみるか・・・。
生を見せれば奮起するヤツがいるか。


実際に、ノートがきちっととれる=成績がいい、という構図だけは成り立つが、
前者→後者、という図は講師経験が短いために未だお目にかかったことはない。残念だ。
力不足だごめんなさい。


前の塾みたいに「新高校1年生向け、英語のノートの取り方講座」を開催したいが、
しょせんただの時間講師(しかも個別指導のみ)では無理だな。
無給でやってもいいんだけどな。