フリーズする人たち

先週末に友人の結婚式に行って、昨年の夏に「とりあえず日本語が通じて、ある程度基本的な知識と常識がある学部卒以上の人が一人事務所に欲しい」といっていた友人に久しぶりに会った。私の直接の知り合いではないが、私の知り合いに頼んで上記のような人を探してもらって、間に入って紹介したが、とりあえずこの1ヶ月働いているそうで、以前雇って人よりは遥に使えるらしき話を聞いて、ともかくよかったなぁ、と思った(その友人自身もものすごくかわいい人なのだが、新たに雇った人は彼女にとってはものすごくかわいいらしい。そのあたりもグーだったらしいが世の中、顔の基準が高水準すぎて私はどうしたらいいものか、いやはや)。
そんな友人と話していて「最近の若い人たち(という会話が出るあたりもうだめな私たちだが)は、分からないことがあるとフリーズして、誰かの助けをただただ待っているよねぇ」という話題になった。酒飲んでタバコ吸いながらの状態で話しているのもなんなんだが。社会人になったらこういう人たちは改善されて、院にいるよりマシだろうと思っていたらそうでもないらしい。私の中の、「社会性について 社会人>>>>>大学院生」という図式が壊された気がした。そうなのかぁ、フリーズ楽でいいなぁ。
先週、大学の先生方と飲み会があったのだが、その時にも社会的にはダメダメな超負け組である文系博士課程(しかも休学中)で、最近の下の学年がどんなに斜め下を行っているか、みたいな話が出たのだが、先生方の危機感は私たちがなんとなく持っているものよりも大きくて、どう対処したらいいのかもうわからなくなっているようだった(話に出たのはおそらく超極端な学生さんの話であって、全ての学生さんではないだろうが)。
現在私は院生にはありがちな塾講をしているのだが、ありがたいことにいま持っている学生さんたちはちゃんと話はできるし(日本語が通じると言うことだ)、高三生に至っては高い目標を持って勉強してくれる人たちなので、ものすごくやりやすいんだが、それでもいろいろ大変なのね、大学側は、と思った記事がこれ「入試「改革」のご提言について」。先生方は本当に大変だろうと思うと同時に、机上の空論をひねっていればいい人たちは楽でいいわね、とも思ったわけで。自分が受験生だったときは「こんな受験勉強などむだだ、意味のないものだ」と反体制的(笑)なことを言って悦に入っていたいい年をした中二病だったわけだが、いまさら受験生と付き合ってみると、これはこれでかなりいいものだと思う。いわゆる「受験的テクニックをつける」というものは少なくて、常識と基本的な知識をつける上にこれ以上の動機付けはないと思うのだ。まあ、受験中はそういう意識で勉強してるわけではなくて、ある程度以上年をとってみないと実感しないのかもしれない、という問題点があるが、そのあたりをクリアすればいいと思うんだけどなぁ、と、年寄りの繰り言になってしまった。