歴史を叙述するということ

初期中世のアイルランドに於いて、ということだが。
アイルランド初期中世史の研究が盛んなのは(日本ではほとんどやってる人はいないが)、この時代、7〜9世紀に書けての文字史料が比較的豊富であるから、だと思われる。特に法律に関してはこの時代に大量に編纂され、16世紀になる頃までほとんど変わっていない、というかおそらくかなり変わっているのだろうが変わった部分というのは本文に注釈として付け加えられたところからしか分からない。法律もそうだがこの時代には他に世俗に関しては年代記(chronicleではなくannals)やgenealogyも多く、その理由の一つとしてこの時代に社会構造が変化し、この時代になって生まれてきた王朝(というのがdynastyの和訳なんだが、この日本語を使った時点で意味がアイルランド初期中世史での文脈で考えると変わってしまう感があって困る)が、その王朝の正当化をし始めたから、というのが割と一般的な解釈になっている。わたしもこのあたりをこちょこちょいじった論文をいま書いているので、改めてその「正当化としての歴史叙述」というのが気になっているところだ。
これを「擬史」として捉えることは単純すぎると思う。確かにある意味「歴史の捏造」である部分も多いのだが、「よし、我々に都合のよいように捏造するぞ!」と思ってやっているわけでは必ずしもないと思う。しかもアイルランドの場合はこれらの文字史料以前には文字で叙述する、という文化がなかったわけで、その意味は重要だ。これを「口承文化を重要視していた『ケルト』の古き良き文化がキリスト教によって壊された」と見るのもまた大いに問題があることは当然なのだが。アイルランドの場合は、文字化にはもちろん最初に文字を操ったキリスト教会の人々がこの作業に大いに関わっているのは間違いないが、彼らだけでなくその作業には世俗のlearned classの人々(詩人と呼ばれる歩く六法全書、や法律家)も含まれているからだ。
で、春の一時帰国中に古本屋で偶然見つけて買った、白川静の新書に素晴らしい記述があった。

…しかし、古代王朝が成立して、王の権威が現実の秩序の根拠となり、王が現実の秩序者としての地位を占めるようになると、事情は異なってくる。王の権威は、もとより神の媒介者としてのそれであったとしても、権威を築きあげるには、その根拠となるべき事実の証明が必要であった。神意を、あるいは神意にもとづく王の行為を、言葉としてただ伝承するだけでなく、何らかの形で時間に定着し、また事実に定着して、事実化して示すことが要求された。それによって、王が現実の秩序者であることの根拠が、成就されるのである。
この要求に応えるものとして、文字が生まれた。そしてまたそこから、歴史が始まるのである。文字は、神話と歴史との接点に立つ。文字は神話を背景とし、神話を承けついで、これを歴史の世界に定着させてゆくという役割を担うものであった。…
白川 静 『漢字ー生い立ちとその背景』、(pp 2–3)

「時間に定着し、事実化させる必要から、神話を歴史の世界に定着させる」。
一言で説明してもらえて、目から鱗がボロボロと取れた。白川静の本なので、もちろん漢字についての話がメインなのだが、文字の必要性、文字化の重要性、という最も根本的なところからの指摘は、他の「非文字文化→叙述文化」への以降時代の歴史を研究する上では、参考になることこの上なかった。というのでカッコつけてこのあたりを本文に載せてしまったのだが、逆に先生に突っ込まれるポイントになるかも知れない諸刃の剣なのだな。

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)