喜捨シーズン

クリスマスショッピングシーズン(ラジオによれば「伝統的」(?)には今週末からだが、すでに先週末から始まってるとのこと)になって初めて街に出た。みんな紙袋をいくつも抱えて右往左往している。単なるショッピング街になぜかアメ横の香りが漂う、そういう何か「迫ったなぁ」という感じがしている。
クリスマスにみんなが家族や親戚、友人達、そしてもちろん自分のためにもガンガン買い物をしてお金を落とす、という非常に健全なる経済活動をする、というのはこういうイベントのある意味良いところであると思う。金は天下の回りものであり、回さなければ意味がないのだから。
そしてこのイベントは本来は宗教的行事であり、たいした信仰心のないキリスト者であっても、店の飾りやクリスマスツリー(ツリー自身にはキリスト教的意味合いはないけれども)や、「キリスト生誕像」(なんというのかよく分からないのだが、マリアが飼い葉桶に寝るキリストを見ている、その馬小屋の周りには羊飼いが囲み、東方の三博士が贈り物を捧げている、という小さな人形を並べたもの。はっ、パパがいないやん、パパが。えーと多分マリアのそばにいるんだよ、ヨセフは。)などを見れば、それとなく「キリストが我々人間のために生まれてくれたことを本来は祝うシーズンなんだなぁ」と思えるであろう。


で。そんな宗教心も向上し、財布も緩くなっているこの時期、多くの募金活動が行われていることに気づいた。その一つが子供達による微笑ましいクリスマス・キャロルであり、街中でも「世界中の恵まれない子供達に」とか、「ホームレス達に暖かいクリスマスを」とか、「小児科専門病院のために」とか、「目の見えない人たちのために」とか、「ガン撲滅(無理じゃないのか、と思ったが)に」とか、多くの有意の人たちが募金活動を行っていた。そして結構多くの人がじゃらじゃらと小銭を投入しているのを見た。いい光景だ。たとえこれがクリスマスシーズンだけのことであろうとも、しないよりはした方が格段にマシであるし、「私はボランティアをしているのである」というわざとらしさが全然無くて、見ていて気分の良いものであった。


貧乏人であり、目先のことと自分のことで手一杯の私は、今回募金はしませんでした。すみません。恵まれない人たち(ヨーロッパの場合だとまずアフリカが最初に来る)に比べたら遙かに金持ちなのにね、と自戒しつつ。


なんとなくね、昔から募金をすると赤とか緑とかの羽根を着けてくれる、あれどうなのよ、と思っていた。その時期になると特に政治家やアナウンサーがこれ見よがしに羽根を胸元に着けている。「私は募金をした良い人です」をアピール? 私は羽根は断っている。人に見せるために募金するわけではないでしょ、本来は、と思うのだよ。しかもこの羽根作ったりするのに実質いくらかかってんの? これで半年間分の生活費を稼いでいる人もいるのかもしれないが、実情を知らなければ、その分の費用ごと募金に回せ、と思う。)ボランティアもしかり。なんだよ、「学生は必ずボランティアをすること」みたいなことを言ってる総理大臣様はよ。それ、ボランティアじゃないから。淡路と神戸の震災路にモクモクとボランティア活動した人たちに失礼だよ、同列に語るのは。あ〜、いい光景を見たのに最終的にこっち方向に考えさせてしまう今の日本の政治家さんよ、何とかしてよ、精神衛生上良くないのよ。