靖国問題と天皇

タイトルがかなりヤバイよな。


昭和天皇が、A級戦犯靖国合祀に不快感を持っていて、だから参拝をやめていた、などというノートが見つかって、小泉は参拝するのか、とか、A級戦犯分祠せよ、とか、戦犯の子供たちのとまどい、とか、いろいろ報道されてるが、問題はそういうことなんだろうか? 私にはよく分からない。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060720-00000062-mai-soci
私が知りたいのは、小泉が敢えて「公人」つまり「日本の首相」として参拝するってのは、どういうことよ、ということなんだが。外交問題になるわけだし、だいたい「信教の自由」は「個人の心の問題」(小泉談)であって、それは首相である小泉じゃなくて、小泉さんという一人に人間としての問題だから、私人として参拝するべきじゃないのか? だいたい、終戦記念日(=戦争が終わって良かったね、っていう、かなりよろしくない命名だよな。敗戦日でいいじゃん)には靖国参拝しか、戦没者を悼む行事がない訳じゃないし、そっちは公人で、個人的に靖国にも行けばいいんじゃないの? しかも靖国神社って戊辰戦争からの「国のために死んだ人たち」が神*1として祀られてるんのに、第2次世界大戦の戦没者だけしか考えてないじゃないすか。参拝するなら「戊辰戦争が終わった日」とか、「日清戦争が終わった日」とか、「日露戦争が終わった日」とかも参拝しろよ。あと、悼むべきなのは戦没者のみならず、空襲で亡くなった無辜の市民、その時に命は失われなかったけれども大怪我をしていまでも苦しんでいる人、家族を失い精神的な苦しみを追った人、戦争に巻き込まれて亡くなったり、それによって運命を狂わされた日本以外の諸地域の人、それらすべてを悼んでこその、「平和な世の中への感謝」になるんじゃないのか?
あともう一つよく分からないのが、A級戦犯の分祠。分祠すればいいわけ? そういう問題なの? なんか問題の中心点がすり替えられてる気がするんだが。中国も韓国も、ここに焦点を当てるべきじゃなくて、首相の公人としての参拝中心に攻めればいいのに。ヘタな攻め方すると、屁理屈言って反論する奴らが大量に沸くわけだから。それに、やっぱり軍事裁判っていうのは、「勝てば官軍」の理屈がある程度まかり通っているわけで、それを言い出したら、とっても難しい問題になると思うんだよね。それでアメリカの都合で、結局、昭和天皇の戦争責任が有耶無耶になってしまったわけだし。だいたい、A級はダメで、B級以下はよい、の理屈も分からない。「私は貝になりたい」でも見てこい。
それにしても、自由に思ったことをぽつりと漏らしただけで、死後何年もたっていきなり御開陳され、あーだこーだ言われなきゃならない、天皇は本当に可哀想だね。人権も、選挙権も、私有財産権も、信教の自由も、全然ないんだもの。そういう意味で、天皇制には反対。天皇はいてもいいけど、制度としては反対。

*1:イヤなのに、なぜか国の決まりとして神にされてしまった人たちも含む。これ、絶対おかしい。死者には信教の自由はない、ということか。