死刑と無期懲役

光市母子殺害:無期懲役を破棄、審理差し戻し 最高裁

山口県光市で99年に母子を殺害したとして、殺人罪などに問われた当時18歳の元少年(25)の上告審で、最高裁第3小法廷(浜田邦夫裁判長・上田豊三裁判官代読)は20日、死刑を求めた検察側の上告を認め、広島高裁の無期懲役判決を破棄し、審理を高裁に差し戻した。判決は「無期懲役の量刑は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」と述べた。最高裁無期懲役判決を破棄・差し戻したのは99年以来、3例目。差し戻し後に死刑が言い渡される公算が大きくなった。(以下略)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20060620k0000e040100000c.html

この事件の場合、現行法では死刑は妥当だとは思うのだが、いつも、死刑判決が出たり、無期か死刑かで検察・弁護側双方が争った、と言う記事を目にする度に、なんだか少し納得できない気分が自分の中に生じる。死刑と無期懲役の間が、計り知れないぐらい広くはないか? と。法律関係にはとんと疎いし、人権問題とか、死刑問題とか、まったくよく分からない素人の戯言ではあるのだけれど。
帝銀事件なんかは死刑が確定してしまったが、戦前の事件でもあり、捜査上の問題、状況証拠のみ、こういう事が(おそらく)原因で、平沢死刑囚は結局死刑に処されることなく、長い間刑務所で、毎日毎日死の宣告を予期しながら生き続けることとなった。今でもそういう気分で毎朝を迎える死刑囚も多い。死刑が実行されるとニュースで大騒ぎされる時代なのだから。
それに引き替え無期懲役は、無期とはいうけれど、それは期限が決まっていないというだけで、最終的には釈放される、らしい。この差って、素人考えでは相当大きいのだけれど。長期の服役には違いないが、毎朝「これで最期かも」と思うこともなく、いつかは(病気したり事故にあったりしなければ)生きて元気に外に出られる(出たあとにもそれなりにいろいろ問題は、本人にも周囲にもあるだろうけれど)可能性が大きい。
なぜ、死刑と無期懲役の間に、終身刑というのが日本にはないのか? 終身刑があると「死刑反対論者」に有利になるとか思っているのか? それとも服役というのは、自らの罪を反省し、贖罪の気持ちを持たせ、最終的には再び社会の一員として復帰させる、ある種の「修練」の場であるから、終身刑というのはそれに叶っていないということなのか? 死刑囚にはその機会も与えられない訳なのだが。しかも毎日の精神的抑圧の元に生きているのだが。国が最終的に人間の生死を決定する、しかも真にアットランダムに(そのように見える)。おいしいもの食べて、「先生、先生」とおべっか受けて、テレビのインタビューで偉そうにほざいて、難しそうなことを、よく聞くと猛烈に頭悪そうな論理で語ってみて、それで机の上の書類に「これにはこういうハンコを押してください」と役人に言われるままにハンコ押して、それである人の死が決定されたりするわけだよね、一般市民の想像では。
国が人の生き死にを決めて良いのかどうか、私には分からないし、語る資格はないかもしれない。なんにも知らないわけだから。でも、感情的には反対だ。それならまだ人を一生の間、隔離してしまう終身刑の方がまだマシだ。池田小事件での宅間元死刑囚は、自ら死刑を望み、反省することなく、国が唯々諾々とその「自殺」願望に手を貸してしまった。被害者やその親族たちにとっては、彼の死よりもまず、彼の反省の言葉、謝罪の言葉が欲しかったはずだ。
本当に、本当に感情的になってしまうけれど、こういうヤツこそ、一生の間、刑務所という完全に閉鎖されたところで、死ぬまでずっと、自らの犯した罪を背負って、苦しんで、苦しんで、悲しんで、悲しんで、生き続けて欲しかった。そしてできるならば、誰かが、彼に最期に救いの言葉を言ってくれたら、彼自身も救われ、被害者も救われ(死んでしまった時点で救われないかもしれないけれど)その家族も救われ、人間は本性は本当は悪いものではなく、善の心を誰だって持っているんだ、って信じられるだろうに。


以上は論でもなく、ただの感情の垂れ流しに過ぎない。