歴史を学ぶ意義?

で、上を読んでの発想。
歴史は作られるもの。それは当然。アイルランドでも社会的枠組みが変わるあたりで文字史料がどーんと増える。俗語の筆記法がある程度確立された時代でもあり、教会/修道院がその立場を安定させるために世俗側に協力した、ということもあるだろうけど。ともかく、新しい概念となりつつあったdynastiesたちの、自分たちの正当性や聖性(異教的にもキリスト教的にも)の確立、その血筋の正統性、勢力・戦力の誇示などの表明を示す史料が多い。系図、王リスト、法律、王たちを英雄に祭り上げるための詩、物語、そしてさらに聖人伝。
「正しい」歴史というものはない。歴史は後世の人間の解釈による。だからこそ明らかに恣意的に作られたと分かる史料は重要だし、扱う人間によって違う解釈も生まれる。史料を書いたり編纂したりした人間自体がすでに何らかの目的を持って行っているわけだから、明らかに「作られた」と分からない史料であっても、そこの表面に現れた「事実」が「真実」の歴史であるわけ無いし、まず、「真実の歴史」なんてものはない。史料に関わった人間、その史料を基に解釈した歴史をまとめた資料、さらにそれらを統合して研究する人間、それぞれがそれぞれの文化的、歴史的、政治的背景を元にそれらに触れるわけだから。それでも歴史を解釈し、分からなかったことが明らかになる。コペルニクス的転換だってある。
怖いのは、「正しい歴史」というのがあると思っている人たちと、そう教えている人たちと、そう言いながら巧妙に歴史を書いている人たち。最も怖いのは、歴史は解釈の入り込む余地がたくさんあることを自覚しながら、それを否定し、その人物の解釈を何食わぬ顔で織り込む人たち。
正しいか、間違っているか、ではなく、その解釈が説得力があるものか、無理がないものか、論理的であるか、それだけだ。それをまず歴史の時間に教えるべき。