オックスフォードブリテン諸島の歴史2

読みかけの本を読了してしまおう月間。

オックスフォード ブリテン諸島の歴史〈2〉ポスト・ローマ

オックスフォード ブリテン諸島の歴史〈2〉ポスト・ローマ

British Isles(ブリテン諸島)」というとアイルランド人には「ブリテン島とアイルランド(その逆もしかり)」と訂正される恐ろしい言葉。場合によってはその辺を考慮したものか「Insular(島嶼部)」という語も使われるが、別にヨーロッパ北西部の島々だけを意味しないので内弁慶にしか思えない。


The Short Oxford History of the British Islesシリーズの第二巻、ポスト・ローマ。アイルランド史だけ考えていては出てこない「ポスト・ローマ」という言葉なのである意味目から鱗ぽろりと落ちる。訳注は着いているが原注は着いておらず、用語の説明(訳者によって付け加えられた部分も多い)も付いていることから、一般書と括られる本書だが、内容はかなり難しい。以下細々と。


おそらくアイルランドの中世初期を聞きかじってさえいない場合は序論でつまずくと思われるのが、用語の難しさ。訳者がそれぞれの用語にそれぞれの訳語を当てるのに苦労したことがよく分かる部分だが、この先の論を進む上でこれほど細かい解説が必要なのだろうかと、原書の著者にちょっと言いたい。一般書だから必要と思ったのかもしれないが煩雑に過ぎる(原書の著者は論文等ではこの点についてはたいていスルーするし、それが一般的だ)。地図についてはこれは原書と同じかどうか分からないが、民集団の名前は載っているが土地名や川名が省かれているのでこれも理解するのが難しいと思われる。といってもこれもすべて書くとかなり大きい地図にする必要があるし、さらにやっぱり煩雑になる嫌いがあるので難しいところか。この部分ではっきりするのはアイルランドの社会構造が複雑怪奇であることか。
第一章 王国と民を俯瞰する
 五世紀、六世紀のブリテン/五世紀、六世紀のアイルランド/七世紀/長い八世紀、六八五〜八二五年
序論と同じ著者によるがやはり(一般書としては)分かりにくい、とはいっても序論よりは多少まし。この人ってこんなに分かりにくい書き方をする人だったか。地図が少ないのが問題点とも言える。個人的にはアイルランドはよいとしては現スコットランド部分がよく分からない。「ブリテン諸島の歴史」といっても別々に並列されている感がするが、致し方ないのだろうか。ともかく、基本情報的な序章的意味のある章とは言える。
第二章 社会、共同体、アイデンティティ
 自然環境/経済生活/社会の構成単位/社会のネットワーク/大規模集団/総括
この章から本格的な論に入るように感じられる。この時期の暮らしぶりや社会構造を史料や考古学資料を使って論じられている。主とした視点はエリート層というよりもそこで生活していた人たちで、その本質的な部分。ただ非常に残念なのは論がブリテン島にずいぶんと偏っていると感じられること。アイルランドに関しての描写も出てくるがどちらかというとブリトン人(とウェールズ人)の論拠的な形が多いということ。このあたりが序論・第一章を書いた著者とのその研究しての違いといわれればそれまでだが。アイルランドの考古学資料がほとんど使われなかったことはやはりバランス的には悪いと思う。
第三章 キリスト教への改宗
 空間と時間ー景観と暦/改宗の意味/キリスト教ローマ帝国、蛮族/アイルランドの改宗/ブリテン北部の改宗/イングランド人の改宗
この章ではっきりと「ブリテン諸島の歴史」という部分が見えてくる。ローマ帝国の版図の一部となったブリテン島と、その版図外であったアイルランドや現スコットランド部分におけるキリスト教の導入とそれによる文化的社会的影響を簡潔に述べた日本語の本はほとんどない状況でいえば、この章は十分な情報を提供してくれると言える。そして版図外とはいわれているがアイルランドは決して全くの外側ではないことを示してもくれる。キリスト教の伝播が時計回りとなっている、という説明は図にも描きやすく非常に分かりやすい。
第四章 権威ある美術
 ローマ派、美術、ローマ風の建物/エルサレム/十字架の崇敬/ラスウェルの十字架/「アミアティヌス本」/島嶼福音書写本/「ダロウの書」/聖書の霊的解釈/聖書の権威と福音書記者の象徴/四つの象徴の頁ー「ケルズの書」/個々の福音書記者と象徴ー聖ルカと「リッチフィールド福音書」/「ダラム福音書」の磔刑ー正統信仰のイメージ
ここでの主題はたとえ非常に大陸の写本と比して逸脱しているように見える島嶼福音書写本(ダロウの書やケルズの書)も、その基盤には大陸において数百年の歴史のある神学的要素がしっかり根付いており、それのブリテン諸島における新しい形での表現に過ぎず、美術史の観点からいえば全キリスト教世界の一部であることははっきりしている、という点。この点が主題であることは美術史に疎い自分としては非常に示唆に富む点ではあるが、残念ながらその説明として神学的聖書学的解釈の部分が非常に多いことと、図版が概して不足しているということ。カラーでないことは仕方がないとしても、もう少し図がないと、その図の構成やデザインの説明と聖書学的解釈のすりあわせが、説得力を持って聞こえない。この点はとても残念。
第五章 ラテン語と現地語 二言語テキスト文化の創造
 サブ・ローマ期ブリテンと初期ウェールズにおけるラテン語と現地語/初期アイルランドスコットランドにおけるラテン語と現地語/アングロ・サクソンイングランドにおけるラテン語と現地語/結論
書かれた言語としての二言語、が主題。大陸のように書き言葉としてはラテン語が選択され、現地語が遺棄された状況と比較して、ブリテン諸島ではどのようにしてそれぞれがそれぞれに対して影響し合ったのか、そして外部からの影響とそれぞれの地域(特にその歴史と資料の残存状況)によってその比率が違うことを順序をおって説明されており、非常に分かりやすい。両言語を別々に研究されるよりも、両者の相互的影響環境を見るべき、という提言は正しいことがよく分かる。
第六章 テキストと社会
 史料/テキストと文脈(コンテキスト)/歴史を書くこと
どちらかと言えばオーラル文化であったもともとの社会が史料に与えた影響とその逆方向の影響についてが本章。非常に面白かった。ローマ的伝統、すなわち書いたものが証拠として必要である、ということをできるだけ受容してもそれでもオーラル文化は実際には残存したイングランドと、他のキリスト教文化圏と比べてアイルランドにおける「学識層」の社会的ヒエラルヒーの高さとその影響による史料の現地語への高評価、が、こちらはこれ、あちらはあれ、という形で解説されていないことがバランス的によくできていると思う。個人的には特に後者の話にこれまで漠然と感じていたことに光を当てられた感じ。また、法律に関する考え方と、それによる社会構造の違いも非常に興味深い。アングロ・サクソンイングランドでは法を公布することは王の特権であり、だからこそ王である正当性を示す政治的行為であった一方で、アイルランドでは王とは無関係の知識人によって書かれた文化的社会的動き、ということと、それによる王権観の違い、がよく説明されている。そして、書かれているものをその通りに受け入れるのではなく、数々の解釈を提示できる可能性のある非常に重要な資料であることを示している部分は、歴史学を学ぶ人たちにとっては非常に有用な部分だろう。
結論はある程度は総括であり、特にアイルランド社会の構造について(個人的に第二章に入れて欲しい部分)が細くされていたように感じられた。
巻末に着いている用語解説は非常に有用。同様に索引にも説明が付加されているのも非常に役に立つ。索引だけ読んでもいいかもしれない。
十年前に読んでいれば…。