まじもののごときつくもの

厭魅の如き憑くもの (講談社文庫)

厭魅の如き憑くもの (講談社文庫)

午前3時まで読んでしまった。まだ忙しい今月終わってないのに。
前半部がガッツリ怖く、ミステリーが始まってから(つまり殺人が起こってから)その怖さがすーっと薄まり、そして最後の1ページでまたぞっとさせる、ホラーとホラーでミステリーをサンドイッチしたような感じ。
舞台設定は横溝正史、世界観は諸星大二郎妖怪ハンターシリーズ)、主人公たちの形成が山岸凉子。異常な名前の村、異常な名字の二つの旧家、同じ名前で漢字の違う女性たち、死体の状況の気味悪さ。そして最後の大どんでん返しの大どんでん返しの大どんでん返しの更に最後のちゃぶ台返し。しかも小説というメディアの盲点をついたネタ晴らし。やられました。地の文は通常「神の視点」であるのがあまりにも当然、という常識にやられた。そういうことかよ。探偵(結果的に)のノートも自分のことが三人称だし、なんか変な感じしてたんだよ。
ただ、ミステリーはあまり読まないので何ともいえないんだが、舞台設定や構成自身が凝っていて、その実犯人がなんとなく微妙な感じがするのは、これは普通なんだろうか。京極夏彦読んだ後も(といっても一冊だけど)感じたんだよな、これ。ただ、この本の場合は盲点をあとで割と細かく解説してくれたので、まだ放っておかれた感じはしなかったんだけど。
舞台は戦争の記憶もまだかなり残っている、昭和30年代頃? 探偵となる幻想怪奇小説家がやたらと「ジーンズはいてるよ、この人、ジーンズ」みたいな初めの部分に、なんのこだわりが、と思ったがあっという間にジーンズは消え、頭脳明晰、っぽい描写は思い出したように時々は現れるが、基本的には好奇心旺盛、そのせいで時々空気が読めないほどの頭の突っ込みよう、しかもそのことを自分で分かっているので周囲の顔色をうかがったり、というなんかまったくもってかっこのよい部分のない人。大どんでん返し(繰り返し)も、いや〜、この人犯人分かってないでしょ、というのが原因だし。刀城言耶なんて仰々しい名前だからどれほど怜悧な主人公、というのがあっという間に覆された。