原 聖『ケルトの水脈』

ケルトの水脈 (興亡の世界史)

ケルトの水脈 (興亡の世界史)

「興亡の世界史」シリーズ第7巻。


ケルト」という語の問題についてよくご存じの原先生が敢えてカッコを付けずに書いた本。
ここで氏がとった二つの素晴らしい態度、それは始めにケルトの定義をくどいくらい繰り返していること。(くどい、というのはなんだが)ケルトという語の定義をしっかりしていてくれれば、カッコは付けなくてもいいと私は思っている。彼の定義とは例えば

言語的広がりをケルト文化圏ととりあえず規定し、この文化圏に属する人々がいかなる歴史的変遷をたどったかを記述しようとするのが本書である。(p. 20)

という部分であり、

本書は、最初に述べたケルトブームの延長上にある西欧文明批判としてのケルト文化の復興を再評価し、概説することが目的ではない。むしろ歴史的文脈の中に再度戻してみて、その中での同時代的意味合いを再考することにある。その上で「歴史の記憶」として「ケルトブーム」の状況を批判的に再検討することである。(pp 24–5)

後者はどちらかというとこの本の目的、を表しているものだが、そこにもいわゆるブームとしての「ケルト」と一線を画すことを明記している。この部分は評価に値するところだ。


更にもう一点、これは本書の至る所で書かれていること、つまり、文化の変容や言語のシフトには、必ずしも民族の移動、民俗の入れ替えがあるとわけではない、ということを何度も何度も繰り返し、強調していること。現代の「想像の共同体」形成以後の世界では、言語=民族、という考え方をしてしまいがちだが、これは実は作られた「事実」であり、普通に良く考えてみれば、言語が変わるからといってそこに居住していた人たちの民族後世ががらりと変わるわけがない、のは当然なのだ。


この二点をふまえた上で、原氏のフィールドであるブルターニュを中心としながら、新石器時代の(ケルトの遺跡と考えられがちな)巨石文化からその歴史の叙述を始め、鉄器時代を代表するハルシュタット、ラ・テーヌを、全ケルト的文化として捉えず、ローマのガリア、それ以外の地域(いわゆる島嶼地域、すなわちブリテン島とアイルランド)にも気を配りつつ、中世後期、近世・近代にも振れながら、その間、現代の「ケルト」イメージを作り始めた「ケルトマニア」に言及し、現代における「ケルト」を検証、という、『ケルトの水脈』というタイトルからより大きい視点を示してくれた形となっている。


などとまじめに書いてしまったが、まあ、いままでこの手の本でここまできっちりやってくれるのって見たことなかったからちょっと驚いたのよね(原先生の他の本ではおそらく書かれているんだろうけど、申し訳ないながら読んでないのです)。わたしとしては16, 17世紀にフランスのみならずドイツでも、国を確立する上で持ちだしてきた概念が「ケルト人」というのが興味深かった。そこからヨーロッパの最初の文化は(ギリシャでもローマでもなくまず)ケルトだ、という極論まで出ていたとは。EUができた時に「ケルト」という概念が利用されていた、というのは知っていたが、近代国家成立の背景にも引っ張り出されていたとは。その時、18世紀になってようやくその気になったアイルランドは、西ヨーロッパ唯一の植民地として「黒い白人」扱いだったのにね。


最後に難癖を付けるとすれば(アイルランドの人物や用語のカタカナについてはちょっとなぁ、問部分もあったがこれはおいておいて)、帯(=著者ではなく編集が付けたもの、と思われる)の煽り文句。

「最初のヨーロッパ人」と異貌のキリスト教 伝説と史実から探り当てる「幻の民」と「歴史の記憶」

20年以上前から使われている「ケルト人」=「幻の民」という図式が残っててなぁ。でもカッコ付きだからわざとなのかなぁ。