京極夏彦『姑獲鳥の夏』

これまでちらちらと3分の1ぐらいまで読んでいた、残りをクリスマスに読了。

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)


姑獲鳥と書いてどうして「うぶめ」と読むんだろう、と「産女(うぶめ)」という言葉を聞くと諸星大二郎の『妖怪ハンター』シリーズの、巨大な顔に手足がついている姿を思い浮かべてしまうわたしだが(よって表紙の写真が産女の人形と気づいたのはかなり後)、話の初めの頃にこの両者(姑獲鳥と産女、ちなみに姑獲鳥も漫画で得た知識としてなんとなく知ってた)が実は「母性」に絡むことで実態としても結構被っているらしい、ことが分かった。また、最後まで読むと無理矢理「姑獲鳥」を「うぶめ」と読ませてしまうことに、ダブルミーニングとして意味があったことも分かった。多分、そういうことじゃないのかな。
読んでいての感じは、探偵小説というよりはやけに理屈臭い(もしくは屁理屈オンパレード)の諸星大二郎。主役の京極堂(わたしの脳内イメージは京極夏彦そのもの)が古書店主のうえ憑き物落としをする神主、のくせにはなっから神秘主義的なものを否定しまくっていて、逆に好感が持てた。安倍晴明ブーム以来、なんだか変な晴明ものだの、陰陽師ものだのが多くて、しかも変な風にオカルトチックで嫌気がさしていたので、新鮮だった。
で、その京極堂がしゃべっているととりあえず文字がつまりまくってクドクドとした口調が視覚的に伝わってくる。ところが特に最後の3分の1あたりでの話者である三文文士、関口の奇妙な感覚の部分が、行間が広がっていてすごい不安を煽る。行間をこれだけ上手に使った本を読んだのは初めてだった。そこでスピードが落ちるから、余計不安感が大きい。しかもその部分の文字の少なさが、変な恐怖心を煽る。京極夏彦のことだから、ひょっとしたらページのどの位置に広い行間を入れるかまで考えて、書いてそうだ。で、わたしが読んだのは文庫版であり、最後に「文庫版として出版するにあたり、本文レイアウトに合わせて一部変更が成されておりますが」とあるところで、やっぱり、ということになったわけだ。
懲りすぎ。というかこだわりの作家、ということか。


オチはまあ、初版が12年も前なのでしょうがないが、今だとちょっと「ええとそれって医学的トンデモになりつつあるよね?」というものであった。まあ、しょうがないよね。しかし、これ映画化してたよなぁ。どんな出来なんだろう、観たいような観たくないような・・・。


京極堂堤真一、なんか違〜〜〜〜〜〜〜〜う!!! つうかファンには申し訳ないが、絶対に違う! というわけで観ないことにする。