歴史的に正しい、正しくない、なんていうのは語義矛盾なんですよ。


「歴史的認識」のできない人間の何と多いことか。
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20061107


こういうのを是正するためにこそ教育改革して欲しいんだけども、どう考えてもベクトルが逆なところがもう、
「もういいです。今日、今が楽しければ、この先どうなろうと知ったことか。私は確かに西洋史学専攻の院生だけど、幸い子供もいないし、この先子供を持つことも無さそうだし、自分の研究がこの先、日本の歴史学にどう作用するかなんて気にしないで、楽しく自分の世界にこもって留学生活します。」と、開き直る、というより閉じ直る、閉じこもる状況に逃げ込まないように、必死に怒りが燃え尽きないようにしないとな。


でも、燃え尽きないとしても流れに身を任せるうちに沈静化してしまうかもしれない。いつか、なぜ自分がこんなことに怒りを覚えていたか思い出せない時がくるかもしれない。日本には「イイ」言葉があるな。「長いものには巻かれろ」「出る杭は打たれる」。この歳でこの言葉から逃げ続けるのは、相当の体力と精神力と耐久力がないとやっていけない。そう考えると辺見 庸は本当にすごいと思う。


こういうことを考えると必ず思い出すのが、遠藤周作の『沈黙』と『深い川』。両者に共通するテーマ(と私が勝手に思っているもの)、「裏切ってしまうような弱い心を持ったユダは、本当に救済されないのだろうか。(反語)」ということ。私は弱い人間なんです。(自分の心さえも)裏切っちゃうこともあり得るんです。それでも(いろいろな意味で)救われるんだろうか。


ブログで最終的に自分語りで終わるってやっぱり気持ち悪いよね。ここまで読んでくださって心ある方々に陳謝します。