ぼくの、マシン(ゼロ年代日本SFベスト集成(S))

悪いことに、すばらしい読書の秋を満喫してしまった。現在この状況の回避を画策中。


個人的には、1980年代、90年代と、主にハヤカワの翻訳SFを読んでいた。このころは日本のSFはまだ盛り上がりに欠けていた、らしい。本屋を徘徊しても、読もうと思うものがなかったように思う(「宇宙皇子」が気になったり「ウルフ概」シリーズに興味を持ったりはしたが)。アシモフのファンデーションシリーズをワクワクしながら読んだり(途中で止まってしまい、彼のロボットものとの集約まで行っていないが。これは「歴史」をライフワークにしてしまった人間として今また読み返すと面白いだろうなぁ)、『月は無慈悲な夜の女王』を萌え萌えで読んだり、2001年宇宙の旅シリーズを3001年まで読んでなんでかなぁ、と思ったりしていた。それと『指輪物語』にはまった。この20年間で3回は読んだと思う(現在までなら5回読んだことになる。もうしばらく読まないだろう)。
その後あまりSF小説を読まなくなり、ファンタジー方向に行ったり、漫画読みまくったりしているうちに2010年になっていた。和製SFは『雪風』ぐらいで、雪風タンハアハア、は私には無理だな、ものすごく面白いけど、ぐらいの認識だった。そこで伊藤計劃を読んだ。びっくりした。それで分かったのだが、2000年代になってから日本のSFが俄然面白くなってきていた、ということ。10年間も気がつかなくて、むっきー、ということで本書を読んだ。


私が面白かったと思ったのはまずは「五人姉妹」(菅 浩江)。ネタはよくあるクローンと移植もの。ともかく淡々と進む、お涙頂戴にはならない展開がすばらしかった。『私を離さないで』は号泣ものだったからね。それはそれでよいのだが。
その次は『A』(桜庭一樹)。元ネタがティプトリーの「接続された女」。21世紀に書くとこういう話になるのか、という感想。突然の「サイコキネシス」はちょっと、と思ったが、情念のない、さらっとした流れ、さらっとした終わり、一人だけ涙に暮れる端役、というのがよかった。ティプトリーのは情念ダダ漏れだったから。
その次が「魚舟、獣舟」(上田小夕里)。遠未来の海洋民たちの生態と、謎の「魚舟、獣舟」との関係が、さらっと「人体改造されてました」として書かれている。二人の対照的な女友達同士の話かと思いきや、どんな世界になっても、たとえ過去の人間の手が入っていようとも、自然の柔軟性には太刀打ちできない、世界の破滅を予期させる終わり方にぞっとした。それがSFの醍醐味のひとつだが。破滅ものは好き〜〜。
本書に収録された女性作家3本すべてが個人的に好みだったのは、何らかの理由があるのだろうか。すべて女性が主人公で、そしてその心情がまったく不自然でなく読めたものだった、というところが、自分が女性あるところと合ったのかも知れない。
ドロドロしてないのだ、表面的には。ひょっとしたらドロドロしたところがその深遠にあるのかもしれないが、そこまで書いていない、というか視点が突き放したところにあるのがこの三つのような気がした。
ちなみに神林長平の「ぼくの、マシン」は、やっぱり『雪風』を読んでいた方があとでフォードバックしたときにいいかな、と思ったが、この人は一度書いてしまったものはそれとしてどうでもよくなってしまうのね。うむむ。短文のガウンガウン来る書き方でなかったのはちょっと残念。



残念ながら「五人姉妹」の作者は、このような淡々と突き放した書き方をあまりする人ではないらしい。とても気に入ったので他の本も読んでみようかと、(今じゃないよ、ずっと先の未来の話だよ)思っていたのだが。
とりあえず(F)の方も読まなければ、と思ったがこれもしばらく読まない。危険なので積ん読もしないぞ。


想像していた通りだが、ラノベを踏み台に、あるいはラノベとの親密性のある作者が多いのが全体的な印象だ。ラノベ界の興隆によってSFが日本で再び栄えるようになったのは、喜ばしいことだ。学園もの、ラブコメものが苦手な私には手が出ないところではあるが。この状態でSF漫画も再び(?)興隆しないかなぁ、と思う今日この頃。


現在、読書の秋を満喫しないために、「炎と氷の歌」シリーズの原書5冊を、きっと来年の春にはペーパーバック落ちするであろう6巻目の予習のために、読み直し中。地図がほとんど見えなくなっている自分の目に哀しくなった。今度拡大コピーしておこう。